
東京のファミレスでアルバイトをしていた時、一緒に仕事をしていた音大生と懇意になった。
彼は〈クラリネット〉を専攻しているのだが、有名演奏家に師事して個人レッスンを受けていたので、その費用を稼ぐためにファミレスでアルバイトをしていたのだ。
彼とは郷里が近かったこともあったし、以前、楽器店でピアノ調律をやっていた僕とは音楽談義などで話が合うので親しくなったのだ。
そんなある日、バイトの休憩時間に彼が言うのだった。
「〇〇さん、今度の木曜日休みでしょ?」
「うん?・・えぇ~と・・うんうん休みだね」
「その日はね、僕〈クラリネット〉のレッスンに行く日なんですよ」
「あぁそうなんだ」
「でね・・こないだクラリネットの先生にねぇ、〇〇さんのこと話したんですけど・・知り合いに、YAMAHAの楽器店でピアノの調律をやってた人がいるんだって・・そしたら、〇〇さんに1回調律をして貰おうって話になったんですよ。今度の木曜日に■■先生のところに一緒に行って貰って・・調律していただけませんかぁ?・・先生のピアノはYAMAHAのグランドピアノです・・G―5です」
「えぇ~っ❗️そんなこと言ったのかぁ~・・■■先生って、東京〇〇〇管弦楽団の首席クラリネット奏者なんだろ?」
「はい・・・」
「そうかぁ・・せっかく★★君が言ってくれたんだから調律するかぁ❗️」
「ありがとうございます❗️先生に伝えておきますっ❗️」
・・・・・・・
木曜日になり、2人で先生のところに出向いていった。
先生は初対面の僕を温かく迎えて下さった。
聞けば、先生は単身ヨーロッパに渡って〈クラリネット〉を勉強された苦労人だという。
だから東京でアルバイトをしながら〈クラリネット〉を勉強している〇〇君には、かつての自分の姿と重なるものを感じておられたのかもしれない。
・・・・・・・
YAMAHA G―5 型グラウンドピアノの調律は2時間ほど掛かった。すると、調律が終ったピアノの(C)と(G)の鍵盤を弾いて5度の和音を鳴らしながら先生が僕に質問を投げ掛けてきた。
「〇〇さん、この5度なんだけど、どうも俺には狭く聞こえるんだけど、どうなんだろうね?」
「あぁ、先生も御存知の通り、ピアノは平均率なんです。ですから5度は本来、純正調では完全に溶け合う和音なんで〈唸り〉が生じないんですが、平均率じゃぁ少し狭くなるんで2秒に1回くらい唸るんですよ。逆に( C)と(F)の4度の和音なんですけど、これも溶け合う和音なので純正調では全く唸らないんですが、平均率の4度は5度とは逆に少し広いんです。1秒に約1回ほど唸るんですよ。だから先生の音感が鋭いということだと思いますけど・・・」
そして、どのくらいの誤差なのかを周波数表で説明すると大変に納得し、喜んで下さったのだった。
・・・・・・・
出された珈琲とケーキを頂いていると、いよいよ★★君のクラリネットのレッスンが始まった。超一流の演奏家の個人レッスンを間近で見るのは初めてだ。
・・・・・・・
先生の指導が始まった。
「はいっ!前回やったところ〈おさらい〉してみようか・・」
「♪~🎵~🎶♪~♪♪・・」
「ん~~?出来てないなぁ~もう1回っ❗️」
「♪~🎵~🎶♪~♪♪・・」
「ん~~~・・・君が苦学生ってことは知っている。でもなぁ、君の本分はクラリネットなんだよ。いくらバイトが忙しいからって、これじゃ本末転倒じゃないか。観客の前に立って、吹けませんでは済まないんだぞっ❗️」
それは、プロフェッショナルとして幾多のステージを務めてきたクラリネット演奏家の厳しい一言であった。
・・・・・・・
そうして苦学しながら音大を卒業した★★君は、数年後に同じ音大出身の彼女と結婚をした。
そして彼は後に教会の〈牧師さん〉になり、教会活動の一環として、ピアノ講師の奥様の伴奏を得ながら、大好きな〈クラリネット〉を演奏し続けている。
彼は今でも、フランスの名器・クランポン社製の〈クラリネット〉を使っているのだろうか。
いつか贈ってくれた、彼が結成した〈クラリネットアンサンブル〉のCDは、あのレッスンの日の想い出と一緒に、今も大切に保管してある。
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