No.410【ピアニストの要求】

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ある女性のピアニストがいた。彼女はお気に入りの調律師を抱えている。

その日は、定期的な調律を施すために、お抱えのピアノ調律師が彼女の自宅を訪れていた。

彼は腕のいい調律師で、彼女の信頼を勝ち得ていた。

彼女は著名なピアニストなのであるが、その分、芸術家の特性とでも言おうか、神経質なところがあったのは当然であろう。

・・・・・・・

調律が終ったところで〈試し弾き〉をしたピアニストはチョッと浮かない顔をして言うのだった。

「う~~ん・・〇〇さん!なんだかタッチが重い感じがするんだけどぉ・・」

「そうですか・・」

「も少し軽くなるように整調して下さらない?」

〈整調〉とは、ピアノの中のハンマーやら止音のためのダンパーやら鍵盤やらを微調整してキータッチや音色を調整する作業のことをいう。

「はい、分かりました。キーの深さは大丈夫ですか?」

「えぇ、そこは大丈夫よ」

「はい、では、暫くお時間を下さい」

調律師はそう言うと作業に取り掛かった。

調律師はピアノの弦を叩く、兎の耳のような形をした〈ハンマー〉と弦の距離を微妙に狭くするように調整をした。こうすると〈ハンマー〉の動きが少なくなってタッチが軽くなるのだ。しかし、音量は微妙に落ちるというデメリットがあった。鍵盤のタッチを軽くすることと音量は比例しているのだ。

そして、タッチが軽過ぎるのも、ピアノを弾いている感覚が薄くなってよろしくないのだが、タッチの軽い重いは演奏者の好みにより異なる。

・・・・・・・

〈打弦距離〉の整調を終えた彼はピアニストを呼んだ。

「先生、少しだけタッチを軽くしてみました。どうぞ・・弾いてみて頂けますか?・・・」

部屋に入ってきたピアニストは、早速ショパンの〈エチュード〉を弾いてタッチの感触を試した。

華やかなショパンの旋律が流れ出したと思いきや、演奏はすぐに中断されてしまう。

「・・ん~~・・まだ重いのよねぇ・・・悪いけどもう1回やり直して下さらないかしら?」

「・・そうですか・・分かりました」

彼はそう言うと、また整調の作業に入ったのだった。

ピアニストの好みをよく知っている調律師は、技術と経験の総てを尽くして要求に応えようと何度も整調したのだが、今日に限って、ピアニストはその結果を受け入れることがなかった。

「まだなんだか重いわっ❗️」

何度やり直しても納得しないピアニストに調律師は言った。

「そうですか・・・では先生、少しばかり長い時間が掛かりますが、もう1回やらせて頂けますか?」

「えぇ、やって下さい。時間は構いませんから・・・」

ピアニストはそう言うと部屋を出ていってしまった。

・・・・・・・

長い作業時間だった。

・・・・・・・

「・・先生、どうぞ弾いてみて下さい・・・」

ピアニストはシューマンの〈道化役者〉を弾き始めたのだが、今回はすぐに演奏を止めるようなことはなかった。暫く弾いたあとその手を止め、微笑みながら言った。

「〇〇さん、ありがとう❗️いい感じだわっ❗️」

「あぁそうですかっ❗️良かった~ありがとうございます」

調律師は感謝の言葉を口にするのだが、最後の作業は休憩をしていただけで、実は何もしていなかったのである。

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