No.283【赤い薔薇のブローチ】

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浜松にあるピアノメーカーでピアノ調律の研修生をしていた若い頃の話である。

昼間は従業員と同じようにピアノ工場のラインに入ってピアノ製造の仕事をして、夜間に調律の勉強をするという日々を送っていた。

そのピアノ工場の近くには大きな紡績工場があって、若い女の子が大勢働いていたので、ピアノ工場の男達と付き合っている女の子が沢山いた。

ある日の休憩時間に、同じラインにいるひとりの女の子が僕のところにやって来てこう言った。

「あのぉ~~・・・」

「あっお疲れ様です・・・」

「あのぉ~〇〇さん、彼女・・いますぅ?」

「えっ?僕?・・彼女なんかいませんよ」

「あっそうですか!よかった~実は・・・アタシの友達がね、ホラ〇〇紡績があるでしょ。そこの子なんだけど・・男の子を紹介してって言ってるんですぅ~」

「男の子~?」

「それで・・〇〇さんがいいと思って・・」

「えぇっ?僕?」

「はいっ!彼女に会ってやってくれませんか?お願いします~」

散々辞退したのだが、あまりに懇願されるものだから遂に根負けした僕は、とうとう承諾してしまったのだった。

当時はPHSも携帯も無かった時代である。彼女から僕のいる寮に電話が入ることになった。

・・・・・・・

その夜、彼女から電話が掛かってきた。見たこともない女の子との会話は実にギクシャクとしたものであったが、それでも今度の日曜日に会おうということになったのだった。

目印に、僕はジーンズに薄紫のシャツで、彼女は白のワンピースの胸に赤い薔薇のブローチを着けるという、まるで古いフランス映画の1シーンみたいな、実に気障な約束をして電話を切ったのだった。

若いとは言え、よくそんなことが出来たものである。思い出しても恥ずかしい。

・・・・・・・

日曜日の浜松の繁華街は人人人で賑わっていた。

僕は少しだけ早目に約束の喫茶店の前に来ていた。まだ彼女は来ていない。

暫くすると、白いワンピースの女の子が、雑踏の中をこちらに向かって歩いてくる姿が見えてきた。

目が合った。僕は軽く会釈をしながら胸の赤い薔薇のブローチを確認した。彼女のほうも、ジーンズに薄紫のシャツ姿の僕を見て間違いがないと思ったのか、静かに近づいてきて恥ずかしそうに挨拶をした。

「あの~~〇〇さんですかぁ?」

「あっはいっ!〇〇ですっ!★★さん、ですよね?」

「はいっ★★です・・突然こんなことしてごめんなさい・・今日はよろしくお願いします」

「あっ!いやいや、こちらこそよろしくお願いします」

これは要するに〈お見合い〉なのだ。

「★★さん、じゃぁこの喫茶店にでも入りますか?」

「はい・・」

・・・・・・・

店に入ってコーヒーを飲みながら趣味のこととか好きな食べ物とかの話を無理矢理するのだが、どうにもなかなか打ち解けないでいた。

実は僕は、今回のことは始めから乗り気ではなかったし、こうして会っている彼女もそんなに好みのタイプではなかったので浮かぬ顔をしていたのだと思う。それを察したのか、彼女はこう言ったのだった。

「あの~~〇〇さん、お友達沢山いますか?」

「はい、何人かいますよ」

「〇〇さん推薦のお友達を紹介していただけませんか?」

《えぇっ?そっちが声を掛けておいて友達を紹介しろだとっ❗️》

と、僕は心の中で憤慨した。

「えっ?友達?・・そうだねぇ、彼女がいないって言ったら伝えておくよ」

言葉遣いも少しゾンザイになっていた。

「お願いします・・」

それっきり2人は気まずくなってしまったので、じきに喫茶店を出て早々に別れたのである。出会ってから30分も経ってはいなかった。

・・・・・・・

あれからもう数十年が経っているのだが、思い出す度に〈失礼な女だったなぁ〉と不愉快な感情が湧いてくるのが常だった。

けれども、あの時の彼女の態度は〈あぁ、この人はワタシには気が無いんだな〉ということを悟ったうえでの、彼女なりに忖度した〈誰か紹介して〉という一言だったのかもしれないなぁと、最近は思ったりしているのだ。

そう、あれは、言い難い〈★★さん、ごめんなさい〉という言葉を言わせないための、僕に対する気配りだったのかもしれない。

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