No.99【副支配人の粗相】

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その御夫妻が大きなホテルで媒酌人を務めるのは初めてのようだった。
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新郎新婦と媒酌人御夫妻の入場が終わって、200人を越える規模の披露宴会場の、ひときわ高い位置にある高砂の席に4人は着席した。
媒酌人の挨拶が終わって着席する時に、担当だった私は媒酌夫人の椅子引きをしながら夫人に労いの言葉を掛けた。
「奥様、お疲れ様でございます。御媒酌人のお仕事は終わりました。あとは最後にご退席されるだけですので、ゆっくりとお食事なりなさったら結構ですよ。御手洗いもご自由にお立ちになって頂いて構いませんので・・・」
けれども、下を見下ろすくらいの高砂の席の媒酌夫人は軽く頷くだけで、相当に緊張している様子だった。
以降、夫人は料理にも全く手をつけることなく、ジッと座り続けていた。
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披露宴のプログラムは順調に進行して、高砂のステージ前では、新郎の友人達の賑やかな余興が催されていた。なかなか面白い演し物だったので、会場には爆笑の声が渦巻いているのだが、なぜか媒酌夫人だけが青い顔をして俯いている。少し震えているようにも見えた。
私は気にしつつ、下げた皿をバックヤードに持っていこうと夫人の横を通り過ぎようとした時である。ふと夫人の足元に目がいった。すると留袖の裾が濡れてポタポタと滴が落ちているのだ。絨毯もビショビショになっている。
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急いでバックヤードに返った時、近くにいた副支配人が瞬時に状況を察知して辺りのサービス員に声を掛けた。
「おいっ!ビール開けたの2・3本持ってこい!」
そう言うや否や、日頃サービスには入らない副支配人が数本のビールを手に持ってすぐに会場内に入っていったのだ。
ニコニコしながら高砂の媒酌夫人のところにいった彼は、ビールを新しいものに差し替えるふりをしてビール瓶を手前に倒したのだった。
媒酌夫人の下半身にはビールがドバドバと流れ落ちていった。さらに慌てたように瓶を起こそうとしてもう1本のビール瓶を倒したので、夫人の留袖の下半身と絨毯はビールで更にビタビタになっていった。
副支配人はナプキンで留袖を拭きながら平謝りに謝ったあと、新婦の介添人の女性を呼んで控室に返って後の処理をするように頼んだのだった。
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「いや~っ!オレも長いことホテルマンやってっけどさぁ~初めてだよ~」
バックヤードに返ってきた副支配人はそう言っておどけているのだが、総てを自分の粗相とビールのせいにして、媒酌夫人本人にも、我々がそれを知ったことをも悟らせないように、夫人の人間と女性の尊厳を守ったのである。
日頃は馬鹿なことばかり言っている副支配人ではあったが、自分を犠牲にして、瞬時の判断で媒酌夫人のプライバシーを守り切ったその行動は、正にプロフェッショナルホテルマンの成せる技だった。
いま思い出しても胸が熱くなるような、私のホテル勤務時代に最も感動と感銘を受けた話なのである。

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