
東京の滝野川に住んでいた若い頃である。ある日、友人がやって来てこう言った。
「あのさぁ、こないだ東十条を歩いてたらさぁ、お前と同んなじ名前の表札の家があったんだぞ・・苗字だよ」
同じ苗字の表札なんて、広い東京だからあってもおかしくはない、という話ではないのだ。
そう、僕の苗字は珍しいのだ。東京の電話帳を繰っても10軒もない。
「えぇ~?ホントかよぉ。僕の苗字は珍しいから滅多にないけどなぁ」
「そうだよ、滅多にない名前の表札だから目に入ったんだよ」
「あぁ、そりゃそうだよなぁ」
「案内するから行ってみようぜ。お前の貴重な親戚かもしれんぞ」
「行ってどうすんの?・・・そういや、東京に何代か前の親戚が移り住んだとか、親父が言ってたことはあるわ」
「おいっ!行ってみようぜっ!」
友人があまりに勧めるものだから次の日曜日に行ってみることになった。
・・・・・・・
「ほらっ!ここだよ」
友人が指差した表札には、確かに僕と同じ苗字が書かれてある。
例えば〈鈴木さん〉とか〈佐藤さん〉とか、よく見かける苗字の人達とは違って、まず見ることがない自分と同じ苗字を、東京の見知らぬ家の表札に見たのだから、なんとも妙な感覚を覚えてしまったのだった。
「ホントだぁ~・・・親戚以外じゃ見たことないぞ、同じ苗字」
「おいっ!ピンポン押せよ」
「えぇ~っ?もういいよ。確認できただけで」
「良かないよ、親戚かもしれんぞ。押せ押せっ!」
「もう~っ!わかったわかった、押しゃいいんだろっ!」
『ピンポ~~ン』
・・・・・・・
「・・・・・は~いっ!」
少ししてから若くて綺麗な奥さんが出てきた。
「あっ!あの~~私、こういう者なんですけどぉ~」
そう言って僕は〈運転免許証〉を差し出した。それを見た奥さんは驚いたようにこう言った。
「まぁ!〇〇さん?」
「はい、いきなり失礼だとは思ったんですけど、コイツが行ってみようって言うもんですから・・」
「アタシ、結婚してから同じ苗字の人は見たことないし、会ったこともないです!・・よく来て下さいました・・どうぞお上がり下さい、どうぞ、そちらのお方も」
「いやいや、見ず知らずの者がとんでもありませんよ」
さんざん辞退したのだけれども、どうしてもお茶を飲んでいって下さいと勧められるので、とうとうお邪魔することになったのだ。
ところが用事があるからと言って友人が帰ってしまったために、僕だけが取り残されてしまった。
いくら珍しい苗字が一緒だからといって、見ず知らずの若い男が、若い奥さんの家に上がり込むなんて、お邪魔するほうもお邪魔するほうなら、迎えるほうも迎えるほうだ。
「じゃぁ、お言葉に甘えて失礼致します」
そう言うと、僕は玄関を上がって案内される部屋へと向かった。
・・・・・・・
紅茶とショートケーキを頂きながら色々話をしてみると、旦那様は学校の先生をしていてトランペットが趣味、先日、赤ちゃんが生まれたこと、家の菩提寺が東北にあって、僕の家の菩提寺がある関西方面とは菩提寺が異なることなどが分かったのだった。
・・・・・・・
長居は良くないと思ったので、挨拶をして早々に失礼することにした。
「ありがとうございました。御主人にくれぐれもヨロシクお伝え下さい。留守中に男が上がり込んだなんて叱られやしませんか?」
「ハハハッ!ウチのは大丈夫ですよ」
そう言いながら、奥さんは赤ちゃんを抱っこして玄関まで出て見送って下さった。
こうして、なんとも奇妙な訪問劇が終わったのである。
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