No.227【ウグイ釣り】

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子供のころに住んでいた家は、桜並木がある川土手の下にあった。土手にも、その下にも道が通っていて、それに沿って住宅が軒を連ねている。その中には老舗の観光旅館や置屋もあって、界隈にはけっこう華やかな雰囲気が漂っていた。

家の目の前の土手を越えたらすぐに河原に下りることができた。自宅の2階に上がると、窓から土手越しに川が見えたほどであったので、魚釣りなんていつでもできたのだった。

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中学1年の夏休みに、1つ年上の従兄が泊まりに来たことがある。もう、魚釣りが大好きな従兄で、魚釣りのためだけに泊まりに来たと言っても過言ではない。

当時の川は水の量も多くて実に綺麗だった。岸辺の浅瀬や入江にはメダカ・タニシ・カワニナ・ゲンゴロウ・ミズスマシ・カエル・オヤニラミ(魚)・ドジョウなどが、本流には、ウグイ・ハヤ・鯉・鮒・鰻・鮎・鯰・ニゴイなどなど、なんでもいた。

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従兄が来ている時は毎日が魚釣りになった。

夕方近くになると、特に〈ウグイ〉を釣りに河原に下りた。玄関を出て土手を越えればもう河原だ。川岸まで行くのに2・3分だった。アッという間だ。

道具は簡単なもので、短めのリール竿にリール、鮒釣り用の釣り針が数本、それだけでOKだ。浮きも重りも要らない。餌は〈パン〉だ。それもクズパンで充分だった。
釣り方はといえば、リール竿の道糸の先端に鮒釣り針を5・6本結んで、それぞれにパンクズを付ける。

それを持って流れの速い〈瀬〉に入っていくのだが、川底の石に付いた苔が滑るし、水の流れが凄く強いので、脚を取られて転ばないように注意しなければならなかった。
深さが膝あたりになると相当の水圧が掛かってきて脚を掬われ、何度もザブンッと倒れたものだ。倒れるとまず止まることは不可能で、強い流れに押されてそのまま本流まで流されてしまうのだった。

だから〈瀬〉に入ったらしっかりと脚を踏ん張らなければならない。そうして川下に向き、リールの糸を解放したら、パンクズの付いた針を流れにまかせて川下に流していくのだ。

すると、パンクズが水に落ちて川面を流れ始めた途端に、忽ち沢山のウグイが集まってきてパンクズに喰らいつく。

「バシャバシャバシャッ❗️」

アッと言う間に当たりが来て竿がグ~~ンと重くなる。そこですぐに合わせると1尾しか釣れない。チョッと我慢するとすぐに第2波第3波の当たりがくる。そこで合わせると30cm前後のウグイが1度に3・4尾上がってくるのだ。気分爽快だ。

30分も釣っていればすぐにバケツいっぱいになった。

そんな感じでウグイは馬鹿みたいに釣れた。だから地元ではもうウンザリしていてまず食べることはなかったのだが、従兄は自分が釣った魚を食べたいと言ってきかない。

仕方がないので持って帰ることにしたのだが、釣った魚を家に持ち帰る時にはルールがあった。それは、持って帰る魚の内臓を現場で全部処理しなければならない、というものだった。そのまま持って帰ると、家での内臓の処分が面倒になるからだ。川岸で捌くと、処理した内臓が他の魚の餌にもなって好都合だった。

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釣った魚を全部持ち帰るのは多過ぎるので、数尾を残して、あとは逃がしてやった。

鱗を落として腹をナイフで裂いていくと〈フン〉が出てきた。

「おにいちゃん!フンが出た!」
「フ~ン」
「腸が出てきた!」
「あ、ちょう」

従兄は今どき聞いたら凍り付くような駄洒落を連発した。それでも当時は可笑しかったのだから不思議である。

そういう訳で、晩御飯のオカズは〈ウグイのフライ〉になったのだが、喜んで食べたのは従兄のおにいちゃんだけだった。

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しかし、従兄の魚好きは伊達ではなかった。過日、好きが高じて水産系が強い大学に進み、アメリカ留学や研究室勤務などを経て、とうとう国立大学の教授にまで登り詰めたのだ。

ところが好事魔多しとでも言うのだろうか、教授としてこれからだという時に、病に倒れて亡くなってしまったのだった。

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葬儀の当日、告別式の会場の前には、ずっと教授室の壁に掛けてあったという、彼があの夏休みに釣った、37.5cm540gと書かれた〈ウグイの魚拓〉が、綺麗な額縁に入れられて飾られていた。

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